夏の残り香

夕方近く、自宅へ向かう列車に乗った。
乗り込んだ駅で微かに残る蝉の声を聞いたけれど
どこか遠くの出来事のように感じた。

 

一瞬で通り過ぎる見知らぬ町。
一度も降り立ったことのない場所なのに懐かしい思いがする。
家々の細長いアンテナが、過ぎてしまった時間の墓標のように見える。

 

犬の吠える声、テレビの音、学校帰りの高校生、自転車、夕食の匂い、帰り道。
まるで時を巻き戻すかのような勢いで、窓辺の景色が移り変わってゆく。

 

そしてもう9月!
いつの間に私の夏は終わったんだろう。
この夏はとても忙しくて、
先の見えない不安に駆られながら
季節の中で佇む事すらできなかった。
蝉の声も、大きな白い雲も、なんら残らなかった。

 

こんな寂しい夏があったなんて
 

過ぎ去ろうとしている夏の後ろ姿を掴もうとすればするほど、
風に光に空に街に秋の気配を感じる。
追憶はいつも朧げで、
捕まえようとしてもいつだって風に消えてしまう。

 

壊れそうなもの……
とどめておきたくても、とどめておけないもの。
触れた途端パリンと割れてしまいそうな類い。
今この瞬間にも、時は流れてゆく。

 

組織化された巨大な歯車からこぼれ落ち、
一人強がったところでまた別の歯車に飲み込まれ……


結局こうしてアスファルトとコンクリートの街へ戻って来る。
ショウウインドーには冬物のブーツが並んでいる。
窓越しに見えるファーのジレを着たトルソー。
それを覗き込む、キャノチェ姿の私。
多分まだどこかで過ぎた夏の欠片を追いかけている。

 

追伸。今宵も薔薇の下で……

 

 

 

 

 

 

ステュクスのスミレ ~Violet of the river Styx

言葉は人を救い、人を傷つける。
思いはすれ違う。
良かれと思ったことは大抵余計なお世話。
善意であるほどに苦しくなる。
その指の隙間からこぼれ落ちたい。
虚しい時間。

 

笑っているしかない、詮索されるのが嫌だから。
気づかないふりするしかない、裏窓から覗き込もうとしているその影を。
見つめるしかない、踏みにじりながら気づかず騒いでいる人の姿を。
1秒でも早く長く無関係でいたい。

 

ねえ、知ってる?
あなたの足の下でスミレの花が息絶えている。

 

真夜中、その息絶えたスミレをそっと手のひらに載せる。
時計の音しか聴こえない部屋で。

 

またあの人たち明日もやってくるのかしら?
そしてまた1つ横のスミレを踏んでいくのかしら。

 

なんだか辛いことばかりで、悲しくなるわね。
すべてのものが失われてゆくの。

 

窓辺から覗き込んだ河面を、スミレの花弁が途切れることなく流れてゆく。
見知らぬ誰かのスミレと共に、私のスミレも小さな1つの点となりただ刹那の河となる。

 

 

 

Sub Rosa
今宵もバラの下で…
銀貨一枚持っていらして。

 

 

 

甘い生活 ~存在より遠い場所

 

 

先日、雨の中フェリー二を観た。
柔らかなソファー椅子に埋もれながら。
La Dolce Vita.
アルレッキーはお留守番。今日はマルチェロ。
1958 Triumph TR3A、きっとソフィーより気難しそうね。
マルチェロは黒かもしれないけれど、私は白がいい。

 

3時間後雨が止んでいたので喧騒を抜け、
暗い方、人が少ない方を選んで彷徨う。
それなのにどんな細道にも人がいる。

 

私は街の雑踏が好きだ。
色々な物が混濁している。
ショーウィンドウに映る楽しそうな通行人たち。パレードのよう。
閉じられた傘が朝顔のつぼみのように揺れている。
立ち止まっているのは私1人。
振り返って銀座の華やいだ午後を見つめる。

 

私はその午後を背に自宅へ戻る。
可能な限り、夕暮れはリビングで1人過ごすことに決めているから。
部屋の中が空と同じようにじわじわとニュクスに侵出されていき、
ヘーメラーがふっと去る瞬間がこの上なく好きなのよ、意味もなく悲しくなるから。
(ボードレール風に言うならば、愁傷心の強い女の一人遊び)

 

暮れゆく空と同じように部屋が蒼くなっていく中、
古い思い出をなにか1つ宙に浮かばせながらつついてみる。
割れて弾けて降ってくる当時の記憶。
今日私に漂着したのは、<<明るい5月の緑の中、風に揺られ木陰のベンチで本を読んでいた記憶>>
多分20年くらい前ね…その時そばにいた人は今元気にしているかしら?

 

今日はたまたまヴーヴクリコがあるから、乾杯しない?
ここはチャチャではないけれど…
惨めで情けない気分に浸りたいのよ。結局何にも残らなかった自分へ乾杯。
ねぇびっくりするくらい、何も残らなかったの。
ペニーアーケードでゲームも出来ないくらい!
美しい思い出さえも無いのよ、思い出したくもない過去へと塗り替えられてしまったから。
息するのも嫌になっちゃった。

 

教えて、ザンパノの海とマルチェロの海の違いを。

 

La Dolce Vita.
全て時のまやかしだったのね。気づかないふりが出来ない位の虚無感に、もうどのくらい苛まれてきただろう。

 

今宵も薔薇の下で…

 

追伸。少しね……短い旅に出ようと思うの。

バイバイ、ソフィアグレース

 

春先の埃っぽい午後だった。
運転席に座った瞬間、やたらと奇妙な感覚に囚われた。
いつものソフィーなのに何かが違う…
車幅が取れないような不思議な感覚。

 

それでもソフィーはいつものように山手通りを通り抜ける。
エンジン音も表示も何も異常はない。
気のせいか…そう思ってラジオのオートチューニングを押す。
繋がったのはドイツのFM局。
同時にジャニスジョプリンのMove Overが流れる。
わぁ懐かしいなぁ。

 

Won’t you move over!
なんてジャニスに合わせて口ずさみながら、
乗った瞬間の違和感などすっかり吹っ飛んで、ソフィーを走らせた。

 

富ヶ谷から首都高に乗り、西新宿ジャンクションに差し掛かる山手トンネルで、
ソフィーはいきなり不機嫌になった。

 

一車線ずつの上り坂、路肩も無い。
あと少しだけ…あの避難帯まで動いて…とアクセルを踏み込むけれど、
ソフィーのエンジンは静かに止まった。

 

なんてこと!

 

なるだけ端に寄ることしかできなかった。
ギリギリの隙間を追い越していこうとするダンプカーが、
大きな音を立てソフィーを破壊していく。

 

あぁ、もう本当になんてこと!

 

祈るような気持ちでエンジンをかけると、かすかに動く。
なんとか避難帯までソフィーを動かすものの、もうそこで終わり。

 

その後は首都高パトロールのバイクと車と警察と、
事務的なやりとりをしてソフィーは運ばれて行った。

 

ケガがなくてよかった、大事故にならなくてよかった、
私を心配する声はその時もその後もたくさんかけられたけれど、
ソフィーに対する言葉は何もない。
全ての言葉が上滑りしていく。

 

11年前の私の誕生日に澄まし顔でやってきたピカピカな彼女は、以来ずっと相棒だった。
色々な人や環境が通り過ぎていったけれど、ソフィーだけはずっと変わらず私の相棒だった。

 

私、ずっと一緒に年を重ねて一生大切に乗ろうと思っていたの。
でもね、離れていくものは離れていっちゃうのね。
いくらそばにいて欲しくても。
どれだけ大切にしていても。

 

この春はお別れ続き。
すべてのものが私を素通りしていく。

 

バイバイ、ソフィアグレース。
何よりも身に堪えた突然の別れだった。
悲しくて泣きながら海へ向かった時も、
病人を運んで高速をぶっとばした時も、
毎回毎回六本木で渋滞に巻き込まれる時も、
湖のほとりのレストランへ行った時も、
大切な誰かと離れた時も、
仕事でうまくいかない時も、
いつも私を乗せてどこへでも運んでくれた。

 

突然こんな風にいなくなるなんて、最後までソフィーはソフィーだった。

 

私、本当に1人ぼっちになった気分。

 

 

……今宵も薔薇の下で。

 

真夜中のエンデバー

これまでの誰よりも遠くへ、それどころか人間がいける果てまで私は行きたい

 

ジェームズの残した言葉を今まで何度思い浮かべただろう。

 

 

出発したのは私の7畳半の部屋で、
気がつけばこんな所にたどり着き、
すぐに引き返せると思っていたあの場所へはもう戻れない。

 

 

時折窓の外から夜の声が入ってくる。
それは酔っ払いの歌声だったり、
救急車のサイレンだったり、
車のクラクションだったりする。

 

 

波の音だとか、
木々の揺れる音だとか、
そういった囁きはここへは入ってこない。

 

 

自分が望んでここへ辿り着いたのに、いつも少し悲しい。
玄関を開けたら、エンデバー号の乗船口だったらいいのにね。

 

 

今宵も薔薇の下で…

 

 

 

 

 

レニングラードの灰 ~Leningrad ash

*

ネフスキー大通り34番地

あの日もこんな雨の午後だった

一人の少女 名前はマチルド(フランスのロジエから来たんだって)

傘もささずに家路へ急いだ

Number 34 Nevsky Avenue

Another afternoon with that rain

One girl, whose name is Mathilde

(She came from st. Rosier in France)

She hurried to get home without an umbrella

 

空へと散った 小さな白い花弁

降り止んだ雨 閉じられた教会(ジャガイモ倉庫だったんだって)

一瞬の光り つかの間の太陽

Scattered in the sky, small white petals

The Rain stopped, the church’s closed door

(It used to be a potato warehouse).

A moment of light, the sun seemed fleeting

 

マチルドは灰になり

レニングラードの空へ消えてゆく

Mathilde turned to ashes

Diminishing the sky of Leningrad

 

**

マチルドの両親は

明けない夜に叫び続ける

気の狂った母 毒入りレモネード(木曜の朝に飲ませたんだって)

それを飲んで皆死んでしまった

Mathilde’s parents

Continue to cry til dawn

A Crazed mother poisons lemonade

(it was drank on the morning of Thursday)

All that touched it, died

 

掴んだはずの 新しい暮らし

積もる夏の雪 トーポリの綿毛(狭い家は空家のままだって)

季節が移る つかの間の静寂

Should have been caught, yet a new life

The snow lies in summer, Cotton woods

(their narrow house remains vacant)

Silence is fleeting, the seasons move

 

全てが灰になり

レニングラードは包囲されてゆく

Everything was gray

Leningrad was under siege dying

 

***

マチルドは美しい自慢の娘

両親がどれだけ愛していたか

豊かな黒髪 アーモンドアイズ(お母さんにそっくりだって)

手にしていた 血だらけのオレンジ

Vaunted beautiful daughter Mathilde

Her parents loved unbounded

Her Eyes almond, her rich black hair

(she looked very much like her mother)

In her hands, blood drenched oranges

 

空き家になった家 錆びたブランコ

小さな赤い傘 雑草しげる庭(彼女は生まれて何を残したか)

見開いたままの マチルドの黒い瞳

Rusty swing at a forgotten house

A Small red umbrella covered in garden weeds

(What evidence is left of her life?)

Mathilde black eyes left wide open

 

*~*

マチルドはただ灰になった

レニングラードで(街中がもえてゆく)

Mathilde is but ashes

In Leningrad (the city is on fire dying)

 

マチルドはただ灰になった

レニングラードで(ヴェルディヴから逃れたのに )

Mathilde is but ashes

In Leningrad (yet escaped Vu Verdi)

 

マチルドはただ灰になった

レニングラードで(全てが燃えていった)

Mathilde is but ashes

In Leningrad (all were destroyed….)

 

ネフスキー大通り34番地

あの日もこんな雨の午後だった

Number 34 Nevsky Avenue

Another afternoon with that rain

 

 

〜用語説明〜

※(1942〜1943年レニングラード)

ネフスキー大通り

旧レニングラードで一番の大通り。

右側は偶数番地、左側は奇数番地。偶数番地は常に日当りがよく日向、奇数番地は昼でも常に日陰になっている。

 

ネフスキー大通り34番地

聖カタリナ大聖堂前の番地。レニングラード時代は閉鎖されていた。

特にレニングラード包囲線の時は、貯蓄倉庫として主にジャガイモを備蓄していた。

 

*  マチルドは常に日当りのよい大通りの、大聖堂の前で命を奪われた*

*  大聖堂なのに政策のために閉鎖して備蓄庫になっていた*

*  被害者はいつも弱き者、幼き者、無知で善良な市民だった*

 

フランスのロジエ通り

ユダヤ人街。1942年7月16日にその通りの北にある小学校へナチスが押し入り、そこに通うユダヤ人生徒165人をゲットー(アウシュビッツ収容所)へ連行する。全員アウシュビッツで殺害。その日に登校していなかったユダヤ人の子数名だけ生き残る。

 

マチルドはその生き残った子供。両親はロジエ周辺でのユダヤ人狩りから家族の身を守るため、列車で遠縁を頼りレニングラードへ亡命する。が、その頃レニングラードでは 悪名高いレニングラード包囲線が勃発していた。

 

マチルドはその両方から免れたが、その後ユダヤ人かどうかは関係なく、大通りで刺殺される。当時ロシアでは急遽の食糧難のため、人肉が食べられ、特に少女が狙われたため、子供1人では街を歩かせないほどの状態になっていた。マチルドはその最初の被害者だった。

 

マチルドは配給された オレンジの実1つを家族皆で食べようと大事に抱えて自宅へ戻る途中に、狙われた。マチルドの持っていたオレンジはそのままに、マチルドの太ももから臀部の肉が切り取られ持ち去られた。

 

(※日付及び人数を含む当時の出来事や、生き残った子供がいる事は実話だが、マチルドのストーリーは、乃木の短編集「レニングラードの灰」における創作です。)

 

ベルディヴ

1942年7月16日~17日、フランス警察によるパリ及び近郊で起こったユダヤ人狩り。拘束されたユダヤ人たちが一時的に収容された場所をベルディヴといった。

 

 

今宵も薔薇の下で…

面影草

 

貴方は山吹の別名を知っていて この花を送ってくれたのかしら?

 

面影草 鏡草 と呼ばれる所以

 

別れざるを得なかった恋人同士が
別れの最後に お互いの顔を映した鏡を地に埋めて
もし再会できたなら鏡を掘り出そうと約束し
その鏡の埋めた場所から黄色の山吹が生えたという伝説

 

遅い春に咲く山吹が
どうしてこんな秋の真ん中に ポツンと咲いていたのかしら

枯れかけているのに1花だけ咲いていたなんて なぜかしら

狂い咲きと貴方は言ったけれど 本当にそうなのかしら

 

 

そこで本棚から山吹の花言葉を探してみる
何か 答えが見つからないかと少しだけ期待して
多分 自己満足でしかないと思いながら

 

 

開いたページに書いてあった言葉は
[気品 崇高 待ちかねる...]

 

 

そう また再び会える日を 待ちかねていたのねきっと
だから こんな肌寒い秋の日に
そっと風に揺れながら咲いていたのね
貴方の目に 止まるように

 

 

次の日曜
もし再会できたのなら
その鏡を埋めた場所にいって
掘り出してみましょうよ
あの日埋めた鏡を

 

今宵も薔薇の下で…

 

ねぇ その面影草の花びらを持ってきてくださる?

 

 

Jezabel

真夜中の電話
2人にしかわからない言葉で

 

昨日の事のように話すのは
20年も前の出来事

 

確かあの時も
同じ箇所で笑いあったよね
2人にしかわからないモチーフ
記憶の中にだけ息づく世界

 

1つ1つ思い出すたび
擦り切れたノイズまじりのMaxi Priestが流れ出す
まだカセットテープだったのよ

 

皆で海へ行ったとき
繰り返しかかっていた曲

 

Close to you
それから
Just a little bit longer

 

今となっては 両方とも
何だか歌詞が出来すぎている

 

不思議ね
こんなにも色鮮やかなのに
どこかがとてもファジーに霞んでいて
朝 目が覚めると
今が広がっているの

 

She was a Jezabel this Brixton Queen,
living her life like a backstreet dream…

 

多分私たちはあの頃と何も変わっていなくて
だけど見ている景色は全く変わってしまっていた

 

住む場所も
見る夢も
何もかも

 

遠い記憶を紡ぐ旅
手を伸ばしたら 届いてしまいそう
手を仕舞ったら 消えてしまいそう
この手を伸ばしていいのかどうか…
今の私には わからない

 

ただ1つわかることは
なるようにしか ならない
…ということ

 


質問よ。あの頃 私がつけていたのはどっち?
どちらもPOISON。でも1つはヒプノシス。

 

 

Sub Rosa…
今宵も薔薇の下で

 


媚薬

昼下がりのカフェのあとは

マノロブラニクに足を滑り込ませ

けやき並木の表参道をあてなく彷徨う

曲がりくねった路地

フルーツベースのシャンパーニュ

自宅へと続く道

 

所々ぬくもりが残るシルクのシーツ

気怠い気持ちのままぼんやり横たわる

空が昼から夜へと色を変えてゆき

時折ふと忘れた頃に遠くで鳴る呼出し音

 

心地よい言葉に酔いしれるうち

いつの間にか空は深く暗くなり

大きな窓から星のような東京の夜景が広がる

 

私は気怠いまま まだ微香が残る指先で桃を剥く

バカラのグラスにあたる氷

静寂の中にただ漂いながら ベーカーのソファーに身を沈める

夜に咲く花が芳香を部屋中に放つ

まるで冷たい媚薬のような時間

 

 

ここは表参道 私の自宅

わかりきった街

なのにいつだって私は異国を彷徨う異邦人のよう

ここしか居場所がないのに

ここしか帰る場所はないのに

ここでも所在なく 1人 空に浮いている

 

夜の窓辺で 宝石のような夜景を1つ1つ指でなぞる

私にとっての媚薬は あなたの口からこぼれる 不確かな愛の言葉

永遠なんて信じないけど

信じたくなる 果敢ない 午後の夢

 

 

…今宵も薔薇の下で

 

空の十字架

空の十字架

 

 

7月最後の日

雲一つない抜けるような青空の中を 真っ白な飛行機雲がグングン伸びてゆく

清々しいほどはっきりと2筋に

その先頭には真っ白の小さな飛行機

高度がうんと高いのか とても小さく見える

目を凝らすと 先端の飛行機が 小さな白い十字架に見える

大きな空のキャンバスを真っすぐ飛んでゆく

 

飛行機雲は空のジッパーみたい

あっという間に空の向こうへ消えて行ってしまった

 

あの十字架のように白く小さな飛行機が

私のこの心の中をスーッと飛んで

果てない記憶のジッパーが閉じていけばいいのに

 

 

8月最初の日

日が落ち少しだけ過ごしやすくなった夜

はくちょう座の5つ星が夜空で十字架のように輝く

それからデネブ ベガ アルタイルと

夏の大三角を指でつくって 私のおでこにトリニタスができる

点滅する飛行機がその中を横切ってゆく

 

飛行機の灯りはまだ見ぬ未来への誘導灯みたい

あっという間に夜の向こうへ消えて行ってしまった

 

あの夜の十字架を横切る小さな飛行機が

私のこの頭の中をスーッと飛んで

果てない未来のジッパーが開いていけばいいのに

 

煙管-キセル

 

細かく刻んだ煙草の葉を
中指と人差し指で軽く丸め
細くて長い真鍮のキセルにつめる
少し上の方から火をつけ

 

1回目
吸って目を閉じる
去来するのは 昨日今日の出来事
あの人あんな言い方しなくてもいいのに
ふーと細く長く肺からゆっくり息を吐く

 

2回目
吸って目を閉じたまま
ふと昔の恋人を思い出す
しかも首元の巻き毛などどうでもいい事
唇を窄めて短い吐息をフッと鼻先にかける

 

3回目
吸ってから目を開ける
まあこんなものよねと今の私が囁く
色々な思いを全部
煙と一緒に2012年5月の空へと泳がせる

 

そして左手でそっとキセルをゆすり
燃えてしまった煙草の葉を落とす
真っ赤な灰皿の中で
煙草の葉は灰になり
私の捨てた記憶と混ざりあう

 

(私はそれを昼下がりのキッチンで水に流す)

 

煙草の香りは3回くらいが丁度良い

 

今宵も薔薇の下で…

 

序曲

テーブルクロスの下で

密かに脱いだマノロブラニク

素知らぬ顔でそっと足を滑り込ませたのは

席を立つ ほんの0.5秒前

 

別れ際 無造作な薔薇の束

そういえばお土産と言って手渡された

OPUS-ONEと同じナパワイナリーのワイン

木箱の蓋をそっとずらすと

オーバーチャー<序曲>というラベル

 

これは直接ワイナリーに行かないと手に入らないんだ

 

あなたは振り向きもせずそう言うと

パチョッティの靴音をターンと廊下に響かせ

足早に午後の表参道へ消えていった

 

ひとり 迷い込んだ森

季節は秋だというのに

ここはまだ鬱蒼とした緑に覆われている

 

空はあんなに明るいのに

ここはこんなにも翳っていて

 

通りはあんなに賑やかなのに

ここはこんなにも静かなのね

 

 

 

今宵も薔薇の下で

 

プリンセングラヒト263番地

プリンセングラヒト263番地

 

 

私は毎晩夢を見る

 

 

今夜は彼女と同じ道をただ歩く

 

 

ダッハウは黒黴とシラミとチフスが蔓延して

持っていたオレンジは跡形もなく消えている

 

 

妄想を究極の狂気というのなら 現実は猛烈な毒薬ね

 

 

今宵も薔薇の下で

 

甘美な狂気を楽しみましょう

 

 

追伸。出されたコーヒーは様子を見ること

 

アネモネ

1本のアネモネを

いつも探している 午後に

こんな場所からじゃダメ?

 

夢の中で時々出会うあの人に

かつて見知った彼の面影はどこにもなく

結局 徒労に終わる

 

理想と現実 2つの異なる貨幣

アドニスに尋ねてみる

「今夜はどちらで支払えばいいかしら?」

 

今宵も薔薇の下で…

旅の話し

夜着便の飛行機が好き

特にリスボン行き

空港が近づき 高度が少しずつ低くなっていくたび

渋滞の車のライトが見える

郊外を走る車のライトを1つ選んで

視野の許す限りずっと目で追って遊ぶ

運転手は空飛ぶ飛行機の中から

まさか自分がストーキングされているとは思いもしないだろうと考えると 少しおかしくて

 

リスボンはカフェがたくさんあって

毎朝 昼 夜 時間があればここに立ち寄って

砂糖をたっぷり入れたカフェ(エスプレッソ)を飲む

エスプレッソサイズの小さなカップ

私はそれに ナタというエッグタルトを食べる

マスターは顔見知り 訪れる人も顔見知り

しばらくぶりに行くと 夕方には皆に知れ渡り いつのまにか大騒ぎ

ここにいると 異邦人というより

故郷へ戻って来たような気分になるのよ

 

週末はシントラへ向かう

シントラには古いアパートがあるの

バイロンがエデンと呼んだ古い街

私はこの街が大好き

石畳の路地が幾筋にも広がっていて

古い錆びた十字架がよく掛かっている

 

 

気がむくとラーゴスに移動して

サンビセンテ岬に寄る ロカよりもここが好き

水平線の向こう かすかにみえる土地はモロッコ

この小さな海峡はジブラルタル海峡

そのまま海伝いに移動するとすぐスペインに入る

アルヘシラスから2時間の船旅でモロッコのタンジェ

このたった2時間で私を包む空気が変わる

出される飲み物は濃いコーヒーからミントティへ

 

タンジェからは電車でカサブランカへ

Barにリックがいないカサブランカですることもなく

私はさっさとマラケシュへ移動する

そしてそのままフェズへ

ここは世界で一番不思議な街

旧市街は入り組んだ迷路のようなみち

タラーカビーラを歩くだけでは

この白昼夢のような街を堪能できない

タラーサラーサより更に細い道を歩く

勿論1人では永遠に迷子になってしまうから

フェズの可愛い人と一緒に

 

この小径の良い所は 夏なのに暗いところ

フェズの入り組んだ迷路の日々に疲れたころ

私はリスボンが恋しくなって 元来た道を帰ってゆくの

そのまま西サハラへは向かわない まだ今は

 

 

E voce ?

さあ 次はあなたの番

今夜は旅の話をしてちょうだい

 

 

私とあなたは接点を持たない場所からスタートしたの

 

 

あなたは 今のあなたに行き着くまで

どんな旅をしてきたのかしら?

 

 

はじめてのおつかい

はじめてのこい

はじめてのうそ

はじめての、、、

色々聞かせてね 楽しみよ

 

 

今宵も薔薇の下で

 

 

 

 

溜息の午後

窓辺に腰掛け 新宿の高層ビル群をただぼんやり見る

たくさんの人が下のスクランブル交差点を渡っていく

静かな私の時間

私は所属する場所が1つもなく どこからもはみ出しもの

room number 2702

前をみているようで いつも過ぎた過去を見ている

視線は高層ビル群を透明にして…..

 

 

 

今宵も薔薇の下で

マルガリータ

このところ

真珠しかつけずにいたから

 

昨夜は 絹の糸が切れ

あちこちへ勢い良く散らばったわ

 

 

1つは貴方の唇へ

1つはクリュッグへ

残りは全て 夜の闇へ

 

champagneの泡が飛び出すように

夜の街へ零れ落ちていった真珠の粒は

とても美しかった

 

その後のことは 知らないわ

 

でもどうして貴方は

その真珠を私に探させたがるのかしら

私が行方を知らないとでも思っているの?

 

 

1つはあなたが飲み込んでしまったし

もう1つは私がクリュッグと一緒に

飲んでしまったわ

 

それ以上黙ってるのは わからないからじゃなくて

残酷な言葉を 宣告したくないだけ

 

でもあまりにしつこいから

教えてあげる あの真珠の行方

 

残りの真珠は

浮浪者の下や

排水溝の中や

排泄物の横や

ペテン師の懐で

潰れているわ

 

もしくは次の朝に

拾った子供がおもちゃ箱にいれているわよ

 

 

どう 満足かしら?

こんな説明させるなんて

貴方って野暮ね

 

ロザリオでチェアーに縛り付けてから

ラペルラの黒レースで喉をジリジリ締めつけてあげる

もしかしてそれが目的だったのかしら 最初から

だとしたら 合格ね

 

 

どちらで縛られたい?

しんじつ と しんじゅ

語尾が1文字違うだけ

 

 

….

 

今宵も薔薇の下で

 

 

追伸 もしかすると外出しているかもしれません。時折ノックしてみてください。

 

 

 

木立闇

 

5月の風に揺れる街路樹

濃くなってゆく緑に 静かで小さな雨が降る

 

昼なのに暗い道 木立闇

いつか来た道

だって 初めての気がしないから

 

通りの向こうは明るくて

無邪気に私を手招きする

 

足首に絡まる蔦 きっと見えていないのね

そこと違って ここは暗いから

 

素知らぬ顔で 明るい方へ

夜までに戻ってくるわ

私自身にそう囁く 薔薇のゲート

 

今は ただ
終わりのない午後に迷い込んでしまいそう

 

….sub rosa

 

 

 

用意はできていて、Mr.アルレッキーノ?

 

黒い仮面の下
見え隠れするあの白い顔も
また違う別のマスクね
あなたは一体いくつ仮面をつけているの

 

 

 

 

もしかして
うまく隠せているとでも思っているのかしら
それってとんでもない勘違いだけど
騙されているふりをする

 

翳った黒い瞳は 見えているのよ
どれだけ仮面を重ねても

 

ペニーアーケード 魔女占い
出て来たカードは マルセイユ版愚者の逆位置

 

女の子みたいに綺麗ね というのは禁句?

 

そうそう アルレッキーノ
菱形のナフキンを忘れていたわよ
午前0時きっかりに 取りにいらっしゃって
鍵を開けておくから

 

そして食事をとりましょう
今宵も薔薇の下で

 

薔薇の残り香

乱れ落ちた薔薇の欠片
それとも
淫レ堕チタ薔薇ノ欠片

 

アスファルト地面と
昨夜の記憶との狭間で
人知れず咲いた薔薇が 静かに散ってゆく

 

背中のすぐ後ろで 今
夜の囁きが 私をそっと撫でていった

 

今宵もまた
薔薇の下でお会いしましょう